価値観が経営を決める
― 伊那食品工業「年輪経営」に学ぶ、価値観を軸にした経営 ―
なぜいま「価値観」が注目されているのか
「とにかく売上を伸ばしたい」「利益を出さなければ」—日々の経営の中で、こうした思いに駆られるのは自然なことです。
従業員を雇い、家賃を払い、取引先への支払いもある。
お金のことを考えない日はないかもしれません。
しかし、世界的に成功した経営者やコーチたちの多くが、ある共通のことを語っています。
それは「お金を追いかけすぎると、かえってうまくいかなくなる」ということです。
では、何を大切にすればよいのでしょうか。
その答えの一つが「価値観」、つまり「自分は何を大切にして仕事をしているのか」をはっきりさせることです。
シリコンバレーの伝説のコーチが教えたこと
アメリカのシリコンバレーには、アップルのスティーブ・ジョブズ、グーグルの創業者たち、アマゾンのジェフ・ベゾスなど、名だたる経営者を陰で支えた一人のコーチがいました。ビル・キャンベルという人物です。
もともとアメリカンフットボールのコーチだったビルは、その後ビジネスの世界に転身し、多くの経営者のメンター(相談役)として活躍しました。
彼がコーチした企業の時価総額は合計で1兆ドル(約150兆円)を超えることから、「1兆ドルコーチ」と呼ばれています。
このビルが残した言葉があります。
「人生は取引の連続と見ることもできるし、人間関係を築くプロセスと見ることもできる。取引によって成功を手にすることはできるけれど、本当にすばらしい人生をもたらすのは人間関係だけだ」
これは、ビジネスを「お金のやりとり」だけで考えるか、「人と人とのつながり」として考えるかの違いを指しています。
さらにビルは、「起業家の成功は、基本的に『何をするか』ではなく『何者であるか』によって決まる」とも語っていました。
たとえば、同じ飲食店を開くにしても、「儲かりそうだから」という理由で始める人と、「美味しいものを食べて笑顔になる人を見たい」という想いで始める人がいます。
最初は同じように見えても、困難に直面したとき、お客様との向き合い方、従業員への接し方に違いが出てきます。
そして長い目で見ると、その「根っこにある想い」が会社の雰囲気やサービスの質となって表れるのです。
トヨタの元社長が「教科書」と呼ぶ会社
このビル・キャンベルの教えを、まさに体現している会社が日本にあります。
長野県伊那市に本社を置く、伊那食品工業です。
「かんてんぱぱ」というブランドで知られる寒天のトップメーカーで、創業から60年以上、ほぼ一貫して増収増益を続けています。
売上は200億円を超え、寒天の国内シェアは約80%。一度もリストラをしたことがなく、毎年1,200人以上の学生が入社を希望し、採用倍率は50倍を超えるそうです。
トヨタ自動車の豊田章男さんは、この会社のことを「私の教科書」と呼んでいます。
日本を代表するグローバル企業の経営者が、長野県の寒天メーカーを「教科書」と呼ぶ。
その理由は、伊那食品工業が実践してきた経営哲学にあります。
「年輪経営」という考え方
伊那食品工業を率いてきた塚越寛さんは、「年輪経営」という考え方を提唱しています。
年輪は、雨が少ない年でも多い年でも、寒い年でも暑い年でも、木が生き続けている限り毎年必ず一つ増えます。
その年輪と同じように、会社が毎年わずかでいいから着実に成長することを大切にする。
これが「年輪経営」の考え方です。
塚越さんはこう語っています。
「いたずらに大きく成長することが正しいとは思わない。急成長にはリスクや不安が付きまとい、ノルマ的な経営を強いては社員を不幸にしてしまう。伸びることを目的とするのではなく、永続するための成長。そうすれば夢や希望があり、皆が幸せになれます」
一般的なビジネスの考え方では、「売上を伸ばせ」「利益を最大化しろ」「成長速度を上げろ」と言われます。
しかし塚越さんは、急成長することの「危うさ」を知っています。
むしろ、「過去最大の危機は売上の急増だった」とまでおっしゃっています。
テレビの健康番組で寒天が取り上げられ、注文が殺到したことがありました。
普通なら「チャンスだ」と思うところですが、塚越さんは「急に増えた売上は、急に減る。
そのとき、増やした従業員をどうするのか」と考え、無理に生産を増やさなかったそうです。
闘病生活で得た人生哲学
では、なぜ塚越さんはこのような考え方にたどり着いたのでしょうか。
実は、彼の人生には大きな転機がありました。
塚越さんは17歳のとき、肺結核にかかりました。
当時、肺結核は死をも覚悟する重い病気です。
3年間、病床で過ごすことを余儀なくされました。
周りの同級生が高校生活を楽しんでいる中、「いつ死ぬかわからない」「生きても働けないかもしれない」「結婚も難しいかもしれない」と、絶望の淵にいたそうです。
しかし、その3年間の闘病生活の中で、塚越さんは「生きるとは何か」「幸せとは何か」を考え続けました。
そして、こう思うようになったのです。
「人生に与えられた短い時間を、すべて幸せに過ごしたい。職場でも家庭でも、通勤中でさえも、すべて同じ”人生の時間”。どれか一つの幸せのために、ほかの時間を犠牲にする生き方なんてしたくない」
そしてその幸せを、自分の会社で働く全社員にも提供しようと、本気で思うようになったのです。
「いい会社」と「良い会社」の違い
伊那食品工業の社是は、「いい会社をつくりましょう」です。
「良い会社」ではなく「いい会社」。
この違いについて、塚越さんはこう説明しています。
「『良い会社』は売り上げなどの数字で測れます。でも『いい会社』の価値は数値化できません。『商品のファンが増えた』『社員が毎日笑顔で働いている』など、周りが『あの会社はいい会社だね』と口をそろえるような会社を作りたいのです」
この価値観を貫くために、伊那食品工業は独特の経営をしています。
たとえば、塚越さんは入社して60年間、一度も「経費削減をしろ」と言ったことがないそうです。
「冬は暖かく、夏は涼しく、明るいオフィスで快適に仕事をするために電力は必要。いい仕事をするために、いい備品を使うべき。社員の幸せを実現する投資は惜しまない」という考えからです。
給料も、年功序列で毎年確実に上がっていきます。
「社員に我慢を強いて利益を上げ、その結果社員が疲弊して離職してしまったら意味がない」「利益とは、社員への給与や福利厚生などに使ったあとの”残りカス”です」と塚越さんは語っています。
仕入れ先もほとんど変えません。
「より安い仕入れ先を求めるようなことはしないし、安いことを理由に取引を始めることもしない。信頼できる相手と、継続して繁栄できる関係でありたい」という方針です。
買い物も、できるだけ地元のお店から。「多少の高い・安いよりも、いつもお世話になっている地元のお店から買うことが大切」だと考えています。
こうした一つひとつの判断の基準になっているのが、「社員の幸せ」「関わる人の幸せ」という価値観なのです。
価値観を貫くのは「甘い考え」ではない
ここまで読んで、「理想論ではないか」「きれいごとではないか」と思われた方もいるかもしれません。
ビル・キャンベルも同じことを言っていました。
「価値観を大切にすることは『甘っちょろいもの』ではない。価値観に忠実に生きるのは、大変なことだ」と。
実際、伊那食品工業の「年輪経営」を実現するのは簡単ではありません。
塚越さん自身、こう語っています。
「年輪経営を実現するためには、遠くを計るというか、先を見る目がとても重要です。先を見る目と、それに対応する研究開発能力が必要」
伊那食品工業は、従業員数に対して1割もの人材を研究開発に充てています。
小さな会社としては、かなりの投資です。
急成長を求めない代わりに、「確実に成長し続けるための努力」を惜しまない。
地道な努力を何十年も積み重ねてきたからこそ、60年以上も増収増益を続けられているのです。
価値観を貫くには、ときに目の前の利益を手放す勇気が必要です。
そして、長期的な視点に立った努力が必要です。決して「甘い考え」ではないのです。
成功を測る本当のものさし
ビル・キャンベルは、こう語っていました。
「自らの成功をお金で測ると、必ず敗者になる。人生における成功の真の評価基準は、どれだけ有意義な人間関係を築くことができたか、そして自分の価値観にどれだけ忠実に生きることができたかによって決まる」
これは、まさに塚越さんが実践されてきたことと重なります。
塚越さんも「いかに多くの人を幸せにするかが大切なテーマだ」とおっしゃっています。
そして、「会社が嫌で辞める人は一人もいない。これが自慢です」と。
従業員10名前後の会社を経営されている皆さんにとって、日々の売上や資金繰りは切実な問題だと思います。
しかし、だからこそ「自分は何のためにこの仕事をしているのか」「どんな会社にしたいのか」という問いに立ち返ることが大切ではないでしょうか。
価値観がはっきりしていれば、迷ったときの判断基準になります。
一緒に働く人たちとも想いを共有しやすくなります。
そして何より、自分自身が納得できる経営ができるはずです。

まとめ:事業計画より先に「価値観の宣言」を
ビル・キャンベルは、「企業が最初にまとめるべきは事業計画ではなく、価値観の宣言だ」と教えていました。
「自分たちは何を大切にするのか」「どんな会社でありたいのか」
難しい言葉でなくても構いません。
「お客様に嘘をつかない」「従業員が誇りを持てる仕事をする」「地域に貢献する」—そんなシンプルな言葉でも、それを日々の判断の基準にすることが大切です。
目標、戦略、戦術、製品、市場の選択—これらはすべて大切です。
しかし、その土台にあるべきは「自分たちの価値観」なのです。
塚越さんの「年輪経営」、そしてビル・キャンベルの教えは、私たちにそのことを教えてくれています。
皆さんの会社には、どんな価値観がありますか?
もしまだ言葉にできていないなら、今日をきっかけに、少し考えてみてはいかがでしょうか。

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