心の状態より行動を変える経営
はじめに:「やる気を出せ」は、なぜ効かないのか
経営者であれば、一度はこんな場面に直面したことがあるはずです。
「もっと積極的に動いてほしい」「自信を持って仕事に取り組んでほしい」—そう思いながらも、スタッフに何と伝えればいいのか分からず、結局「やる気を出してほしい」と声をかけるしかなかった、という経験です。
ところが、そのような声がけが劇的な変化をもたらした、という話はあまり聞きません。
なぜでしょうか。
答えはシンプルです。「やる気」や「自信」は、直接変えることができないからです。
背景:「心の中」には指示が届かない
心理学の世界に「心理的柔軟性」という考え方があります。
これは、状況に応じて自分の行動を柔軟に変えていく力のことを指します。
この考え方の中で、特に重要なコンセプトがあります。
それは、「変えられないもの」に執着せず、「変えられるもの」に集中する、という発想です。
「自信」「やる気」「モチベーション」—これらはすべて、心の中にあるものです。
他人が直接触れることはできません。
いくら「自信を持て」「やる気を出せ」と言葉をかけても、それは相手の心に命令を送っているようなもので、実際には何も変えられないのです。
一方で、「挨拶をする」「メモを取る」「大きな声で返事をする」「困ったときに相談する」といった「行動」は、目に見えて、測ることができて、変えることができます。
つまり、経営者がスタッフに働きかけるべきなのは「心の状態」ではなく、「具体的な行動」なのです。
核心:チームの信頼は「感情」ではなく「行動」でつくられる
職場の心理的安全性(心理的安全性とは、「ミスを報告しても責められない」「意見を言っても馬鹿にされない」と感じられる職場の雰囲気のことです)を長年研究してきた、ハーバード大学のエイミー・エドモンドソン教授は、その著書の中でこのように述べています。
「チームの心理的安全性には、メンバーが互いに信頼し、尊敬し合っていることが前提条件となる」
これを読んで、「なるほど、ではうちのスタッフにも互いを信頼し尊敬するよう伝えよう」と思った経営者もいるかもしれません。
しかしここに、大きな落とし穴があります。
「信頼」も「尊敬」も、心の中のことです。
「お互いを信頼しよう」「みんなで尊敬し合おう」と言葉で伝えたところで、その感情が生まれるかどうかは別問題です。
感情に対して命令はできません。
では、どうすればいいのか。
大切なのは、「信頼や尊敬が大事だ」と言い続けることではなく、結果として信頼や尊敬が生まれるような「具体的な行動」を増やしていくことです。
「困ったことがあったら、すぐに相談してください」と伝えるだけでなく、実際に相談があったときに手を止めて向き合う。
「ミスをしても責めない」と言うだけでなく、ミスが起きたときにまず原因を一緒に考える。
こうした行動の積み重ねが、やがて「この人は信頼できる」「この職場は安心だ」という感情を育てていくのです。
事例:ある飲食店オーナーの気づき
東京近郊で小さなカフェを営むAさん(40代・従業員8名)は、数年前まで、スタッフのやる気のなさに頭を悩ませていました。
「もっと笑顔でお客さんに接してほしい」「元気よく動いてほしい」と何度も伝えていましたが、状況はなかなか変わりません。
「なぜ言ったとおりにやってくれないのか」と感じながらも、ある日ふと気づきました。
「笑顔でいてほしい」というのは、相手の感情への要求です。
笑顔は感情が表れたものであり、「笑顔でいること」を義務にしても、本当の笑顔は生まれません。
そこでAさんは、アプローチを変えることにしました。感情に働きかけるのをやめ、行動に着目することにしたのです。
まずAさん自身が変わりました。
毎朝スタッフが出勤してきたときに、名前を呼びながら「おはよう」と声をかけるようにしました。
業務の引き継ぎの際には、必ず「何か困っていることはある?」と一言添えるようにしました。
ミスが起きても、その場で叱るのではなく、「次はどうすればよかったと思う?」と一緒に考えるように変えました。
感情を変えようとするのではなく、「自分がとれる行動」を変え続けたのです。
すると、3ヶ月ほど経つころから、少しずつ変化が現れてきました。
スタッフ同士が業務の合間に声をかけ合うようになり、困ったことをすぐに相談するようになり、そして自然と表情が明るくなっていきました。
Aさんはこう振り返ります。
「笑顔でいてくれと言うのをやめたら、みんな笑顔になっていた。不思議なようだけど、当たり前のことだったのかもしれません」

まとめ:小さな職場だからこそ、「行動」が大きな力を持つ
経営者は孤独です。スタッフのやる気や人間関係の悩みを、誰かに相談できないことも多い。
そして、「もっとみんなが積極的に動いてくれれば」「もっとチームワークがよければ」と、心の中の何かが変わることを願い続けてしまう。
しかし、変えられないものを変えようとするのは、消耗するだけです。
大切なのは、今日から自分がとれる具体的な行動に目を向けることです。
朝、名前を呼んで挨拶する。
相談があったとき、作業の手を止めて話を聞く。
ミスを叱るのではなく、次への改善を一緒に考える。
良い仕事をしたとき、具体的に言葉で伝える。
これらは派手な施策ではありません。
しかし、こうした小さな行動の積み重ねが、やがてスタッフの間に「信頼」を育て、「尊敬」を生み、チームの空気をつくっていきます。
「心」は変えられなくても、「行動」は今すぐ変えられます。
そして、行動が変われば、やがて周りの心も、自然と変わっていくのです。
心理的柔軟性の考え方は、ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)と呼ばれる心理学のアプローチに基づいています。
職場のマネジメントや人材育成の分野でも、近年注目が高まっています。
