「人は宝」を言葉で終わらせないために 〜小さな会社だからこそ効く、人にお金を使うときの考え方〜
はじめに 「うちは人がすべて」と言える社長ほど、悩んでいる
「うちみたいな小さな会社は、結局、人がすべてですから」
経営者の方とお話ししていると、この言葉を本当によく耳にします。口先だけの言葉ではなく、心からそう思っていらっしゃることも伝わってきます。
ただ、そのあとに少しだけ質問を重ねると、多くの方が言葉に詰まります。
「では、その大切な人たちのために、去年いくら使いましたか」
「そのお金で、何が変わりましたか」
これに即答できる経営者は、実はほとんどいません。
これは決して、社長が人を大切にしていないという意味ではありません。
むしろ逆で、人を大切に思っているからこそ、「お金で測るものではない」と感じてしまう。
あるいは、日々の仕事に追われて、振り返る時間がない。そういうことではないでしょうか。
この記事では、「人にお金を使う」ということを、少し違う角度から見つめ直してみたいと思います。
後半では、ある架空の造園会社の一年をたどりながら、社長がどこで迷い、どうやって最初の一歩を見つけたのかを、少し時間をかけてお話しします。
難しい理屈ではなく、明日から手をつけられる小さな一歩を中心にお伝えできればと思います。
なぜ小さな会社ほど「一人」の重みが大きいのか
まず、少しだけ全体の様子を見てみます。
日本で働いている人のうち、およそ7割は中小企業で働いています。
つまり、この国の仕事の大部分を支えているのは、小さな会社だということです。
一方で、人手不足の影響をいちばん強く受けているのも、中小企業です。求人を出しても応募がほとんど来ない。
やっと採用できた人も、数か月で辞めてしまう。そんなお話は、もう珍しいものではなくなりました。
ここで考えてみたいのは、「一人」の重さです。
従業員1,000人の会社で一人が辞めても、全体から見れば0.1%です。
ところが、10人の会社で一人が辞めれば、それは全体の1割にあたります。
大きな会社でいえば、100人が一度にいなくなるのと同じ割合です。
たとえるなら、大型の客船と、10人で漕ぐ小舟の違いに近いかもしれません。
客船は乗組員が一人減っても、ほとんど速度は変わりません。
でも小舟は、漕ぎ手が一人抜けただけで、進む向きまで変わってしまいます。
しかも、人が辞めるときに出ていくのは、労働力だけではありません。
その人が身につけてきた技術。
「あのお客様は、この時期になるとこういう相談をしてくる」という記憶。
取引先の担当者との、長年の信頼関係。
こうしたものが、その人と一緒に会社の外へ出ていってしまいます。
マニュアルにも帳簿にも書かれていない大事なものほど、人の中にしか残っていないのです。
辞めたいと切り出された夜、社長の頭に真っ先に浮かぶのは、その人の顔よりも「明日からこの仕事を誰が回すのか」だったりします。
そして、そんな自分に少し落ち込む。小さな会社の経営者なら、きっと覚えのある感覚ではないでしょうか。
逆にいえば、小さな会社ほど、人にかけたお金や手間の成果が、そのまま会社の力に跳ね返ってきます。
一人が育てば、会社全体の1割が強くなる。この構造は、裏を返せば大きなチャンスでもあると考えられます。
社長が「人にお金をかける」ことに迷う本当の理由
それでも、人にお金を使うことに迷う経営者は少なくありません。
そこには、ちゃんとした理由があります。
機械を買うときには、見積書があります。
何年使えるか、どれくらい仕事が速くなるかも、ある程度は見通せます。
ところが人の場合は違います。研修に行かせても、何が返ってくるのか見えにくい。
時間をかけて育てても、「せっかく育てたのに辞められたら」という不安がつきまといます。
そして何より、今月の支払いのほうが先に気になります。
判断が止まるのは、多くの場合ここです。
「大事なのは分かっている。でも、何にいくら使えばいいのか分からない」。
この状態が続くと、人へのお金の使い方は、毎年なんとなく前年と同じになっていきます。
ここで、決算書を長年見てきた立場から、一つお伝えしたいことがあります。
小さな会社の決算書を見ると、「研修費」や「教育費」の欄は、ほとんど0円ということが珍しくありません。
数字だけ見れば、「この会社は人を育てるお金を使っていない」ように見えます。
でも実際には、先輩社員が毎日、仕事の合間に後輩へ教えています。
その時間は、教える人の給料の中に溶け込んでいて、どこにも「教育」とは書かれていません。
そして、人が一人辞めた年の決算書には、「人が辞めたことによる損失」という行はどこにもありません。
それなのに、求人広告の費用が増え、残った人の残業代が増え、手が回らない仕事を外に頼む費用が増えています。
損失は名前を変えて、いくつもの行にそっと散らばって載っているのです。
つまり、多くの会社はすでに、人のためにかなりのお金を使っているのです。
ただそれが、意図して使ったお金ではなく、気づいたら出ていっていたお金になっている。
ここに、小さな会社が人の問題で苦しむ根っこの一つがあるのではないでしょうか。
人へのお金の使い方を変えて、結果を出した会社がある
「とはいえ、うちのような規模で何ができるのか」と感じる方もいらっしゃると思います。
そこで、実際に成果を上げた会社の例を二つ、ご紹介します。
一つ目は、神奈川県のある旅館です。
この旅館は、紙や人の記憶に頼っていた仕事を、パソコンで情報を共有できる仕組みに変えました。
あわせて、社員が新しいことを学び直す機会にも、お金と時間をかけました。
その結果、以前は年に4割もの社員が辞めていたのに、それが3%にまで下がったそうです。
さらに、週に3日休める働き方と、赤字からの立て直しを両立させました。
休みを増やしながら利益も出す。一見すると矛盾しそうなことが、人への投資によって実現した例です。
二つ目は、大阪府の工事を請け負う会社です。
この会社は、社員がどれくらい辞めているか、育てるためにどれだけのお金を使ったか、といった実績を小さな冊子にまとめました。
誰かに求められたわけではなく、自分たちから進んで公開したのです。
すると、採用に応募してくる人の質が上がったといいます。「この会社は、人をちゃんと育てようとしている」ということが、言葉ではなく数字で伝わったからだと考えられます。
どちらの会社も、特別に大きな会社ではありません。
共通しているのは、人に使うお金を「なんとなく」ではなく、「狙いを持って」使い、その結果をきちんと見える形にしたことです。
今日から始められる、3つの小さな習慣
では、私たちは何から始めればよいのでしょうか。
ここでは、大がかりな制度づくりではなく、どんな規模の会社でもできる3つのことをご提案します。
一つ目 紙1枚に「これから必要な人」を書き出してみる
まずは、これからの会社に「どんな力を持った人が、何人必要か」を書き出してみることです。紙1枚で十分です。
「3年後もこの仕事を続けるには、この技術を持つ人があと何人いるか」
「今いるベテランの技術を、誰に引き継ぐのか」
「お客様と話して見積もりを出せる人は、自分以外に何人いるか」
こうした問いに答えていくだけで、採用や育成の目的がはっきりしてきます。
地図を持たずに旅に出ると、どこにお金を使えばいいか分かりません。
紙1枚は、その小さな地図のようなものだと思っていただければよいかもしれません。
二つ目 年に1度、「使ったお金」と「変わったこと」を並べてみる
二つ目は、人のために使ったお金と、それで何が変わったかを、年に1度だけ振り返ることです。
資格を取るための講習費、道具の購入、給料の見直し、先輩が教えた時間。こうしたものを拾い出し、その横に「何ができるようになったか」を書いてみます。
決算の時期に合わせて行うと、続けやすいかもしれません。
最初はうまく書けなくても構いません。「お金は使ったけれど、何が変わったか書けない」と気づくこと自体が、大きな一歩だと考えられます。
三つ目 「人を大切にしている証拠」を、数字で見せてみる
三つ目は、自社の人に関する数字を、働きたいと考えている人に見せることです。
たとえば、「定着率」という言葉があります。入社した人のうち、何割が辞めずに続けているかを表す数字のことです。
ほかにも、新人一人に先輩が教える時間が月に何時間あるか、入社から一人前になるまで何年かかるか、といった数字も伝えられます。
求人票に「アットホームな職場です」と書く会社はたくさんあります。
でも、「この3年で辞めた人は1人です」「入社1年目は、先輩が月に20時間ほど横について教えます」と書く会社は、ほとんどありません。
だからこそ、それが他の会社との違いになります。
この3つを続けるだけで、人に使うお金は「気づいたら出ていっていたお金」から「狙いを持って使うお金」へと、少しずつ変わっていくのではないでしょうか。
ただ、言葉で書くと簡単そうに見えても、実際にやってみると、あちこちで手が止まるものです。
ここからは、ある架空の会社の一年をたどりながら、その「手が止まるところ」を一緒に見ていきたいと思います。
ある造園会社の一年 〜「何も書けなかった紙」から始まった〜
頼りの社員が辞め、庭の記憶まで失った
地方都市で、個人のお宅の庭の手入れや植木の剪定を請け負う造園会社があります。
社長の平野さん(仮名)は40代後半。庭師や事務を合わせて、従業員は10名ほどです。
ある春、30代の中堅社員が「別の仕事に移りたい」と辞めていきました。
いちばん頼りにしていた一人です。すぐに求人を出しましたが、2か月たっても応募はありませんでした。
困ったのは、人が足りないことだけではありませんでした。
その社員が担当していたお宅の庭について、「どの木を、いつ、どこまで切るか」が、本人の頭の中にしかなかったのです。
お客様から「前の人はこうしてくれたのに」と言われるたびに、平野さんは頭を下げました。
紙1枚に書き出し、去年のお金を拾ってみた
平野さんは、まず紙1枚に書き出すことから始めました。
今の仕事を5年後も続けるには、木に登って剪定できる人があと2人、お客様と話して見積もりを出せる人が自分以外に1人必要だと分かりました。
そして、60代のベテラン庭師・小島さん(仮名)の技術を、誰に引き継ぐかがいちばん大事だと気づきました。
次に、去年人のために使ったお金を拾い出してみました。
年が明けてすぐの、雨で現場が休みになった日のことです。
資格の講習代が二人分。
作業着と道具の補助。夏の暑さ対策に買った空調付きの作業着。
合わせて三十数万円。
決して少ない額ではありません。
でも、その横に「これで何が変わったか」を書こうとすると、ペンが止まりました。
「みんな喜んでくれた、とは思う。でも、それで仕事の何が変わったんだろう」
何も書けないと分かったとき、最初に考えたこと
実は、本当に難しいのはここからです。
「何も書けない」と分かったとき、多くの社長は次の一手が見えずに立ち止まります。
給料を上げるべきか。研修に出すべきか。求人広告を増やすべきか。
どれも正しそうで、どれも決め手がない。
平野さんも、最初に浮かんだのは「じゃあ、何にお金を使えばよかったんだ」という問いだったといいます。
けれど、どれを考えても、しっくりきません。
何を選んでも、また一年後に同じように「何が変わったか書けない」となりそうな気がしたのです。
ここで平野さんは、ひとつのことに気づきます。
自分は「何にお金を使うか」から考えようとしている。
でも、そもそも「何に困っているのか」が、はっきりしていない。
病院でたとえると分かりやすいかもしれません。
具合が悪いとき、いきなり薬を選ぶ人はいません。
まず、どこがどう痛むのかを確かめます。
それなのに、会社の人の問題になると、私たちはつい「どの薬を買うか」から考え始めてしまいます。
平野さんは、答えを探すのをいったんやめました。
その代わりに、「どこが痛むのか」を探すことから始めてみよう、と決めたのです。
答えを探す前に、「困った場面」を集めてみた
では、どうやって痛むところを探したのか。
平野さんがしたことは、とても地味なことでした。
手帳の後ろのページに、「困った」と感じた場面を、その日のうちに一行ずつ書き留めていったのです。
期間は二週間と決めました。
大事にしたのは、「困った理由」ではなく「困った場面」を書くことでした。
理由を書こうとすると、どうしても「人が足りないから」「若手の経験が浅いから」と、ぼんやりした言葉になってしまいます。
場面なら、何が起きたかをそのまま書けます。
二週間たって、手帳にはこんな場面が並んでいました。
あるお宅で、松の枝をどこまで切るか分からず、若手の北村さん(仮名)が現場から小島さんに電話をかけてきた。
小島さんは別の現場で木の上にいて、電話に出られなかった。
お客様から「去年は、ここの生け垣をもう少し低くしてもらったはず」と言われたが、誰も覚えていなかった。
夜の9時過ぎまで、平野さんが一人で見積もりを書いていた。それが週に3日あった。
事務の吉川さん(仮名)が、お客様からの電話で「うちの梅はいつ頃来てもらえますか」と聞かれ、答えられずに折り返しにした。
北村さんが、同じ道具の手入れの仕方を、先月と今月で二回聞いてきた。
書き出したのは全部で二十数行。読み返してみて、平野さんは少し驚いたそうです。
一つひとつはばらばらな出来事に見えます。
ところが、似たものを寄せていくと、三つの山に分かれたのです。
一つ目の山は、「庭ごとの記憶が、人の頭の中にしかない」ということ。
どの木をいつどこまで切るか、お客様が去年何を頼んだか。
それが記録されていないので、担当が変わるたびにゼロからになってしまう。
二つ目の山は、「教える時間が、決まっていない」ということ。
北村さんは聞きたいことがあっても、聞くタイミングがない。
小島さんも、教えたい気持ちはあっても、自分の現場で手いっぱい。
教えることが「手が空いたらやること」になっていました。
三つ目の山は、「お客様と話して見積もりを出せるのが、社長一人しかいない」ということ。
これは平野さんにとって、少し耳の痛い発見でした。
困りごとを三つの山に分けてみたことで、平野さんの頭の中は、ずいぶん静かになったといいます。
「何にお金を使えばいいか」という大きすぎる問いが、「この三つのうち、どれから手をつけるか」という、答えられる問いに変わったからです。
帳簿をめくって、辞められて出ていったお金を足してみる
もう一つ、平野さんがこの時期にしたことがあります。
去年の帳簿を、人が辞めた春の前と後で見比べてみたのです。
先ほどお話ししたとおり、帳簿のどこを探しても、「人が辞めたことによる損」という行はありません。
けれど、よく見ると、ほかの行が少しずつふくらんでいました。
手が回らなくなった庭の手入れを、隣町の同業者に頼んだ費用。
求人誌と求人サイトに出した広告の費用。
残った社員の残業代。
散らばっていたものを一つに足してみると、ざっと拾っただけでも百万円を超えていました。
「育てるのに使ったお金より、辞められて出ていったお金のほうが、ずっと多かったんだな」
平野さんはそうつぶやいたそうです。
この数字を見たことで、平野さんの迷いの性質が少し変わりました。
「お金をかけるかどうか」ではなく、「どうせ出ていくなら、どこに使うほうがいいか」という問いになったのです。
社員に聞いてみた。でも、最初は誰も話さなかった
困りごとの山が見えてきたところで、平野さんは社員にも聞いてみることにしました。
社長が一人で見ている景色だけでは、見落としがあるかもしれないと思ったからです。
ただ、ここでも迷いがありました。
「聞いたら、不満ばかり出てくるんじゃないか」
「給料を上げてくれと言われたら、どう答えればいいんだろう」
社長が社員の声を聞くことをためらうのは、こういう気持ちがあるからではないでしょうか。
聞いた以上は応えなければいけない。でも、全部には応えられない。
それなら、聞かないほうがいいのでは。そんなふうに考えてしまうのは、とても自然なことです。
それでも平野さんは、聞いてみることにしました。
最初は、朝の打ち合わせの最後に、全員に向けて聞きました。
「仕事のことで、困っていることがあったら教えてほしい」
返ってきたのは、沈黙でした。
誰も目を合わせず、しばらくして中堅の大塚さん(仮名)が「特にないです」と言い、それで終わりました。
平野さんは、少しがっかりしたそうです。
でも、あとから考えると、無理もない聞き方でした。
みんなの前で「困っている」と言えば、誰かを責めているように聞こえるかもしれない。
自分ができていないと認めることにもなる。
それに、社長に言ったところで、どうせ何も変わらないだろう。
社員の側には、そういう気持ちがあったのかもしれません。
社員から意見が出ないとき、それは「困っていない」という意味ではありません。
多くの場合、「ここで言っても大丈夫か、まだ分からない」という意味なのだと考えられます。
聞き方を変えたら、言葉が出てきた
平野さんは、聞き方を変えてみました。
みんなの前ではなく、一人ずつ。
会議室ではなく、現場から帰る軽トラックの中で。
そして、「困っていることは」と大きく聞くのではなく、手帳に書いた具体的な場面を出して、「あのとき、どうだった?」と聞いたのです。
北村さんには、松の枝の電話の話を出しました。
すると北村さんは、少し間をおいてから話し始めました。
「聞きたいことは、けっこうあるんです。でも小島さん、いつも忙しそうで。同じことを二回聞いたら怒られるかなって思って、聞けないことのほうが多いです」
道具の手入れを二回聞いてきたのは、覚えが悪いからではありませんでした。
一回目にちゃんと聞けていなかったのです。
小島さんにも、帰りの車で話を聞きました。
小島さんの言葉は、平野さんにとって意外なものでした。
「教えるのは嫌じゃない。でも、わしらは見て覚えろで育ったから、口で教えるやり方が分からんのよ。どこまで言ったらいいのか」
そして、少し言いにくそうに、こう続けたそうです。
「若いのが覚えたら、わしの仕事はなくなるんかね」
教えることへの戸惑いと、自分の居場所がなくなる不安。
ベテランが若手に技術を渡したがらないように見えるとき、その裏には、こういう気持ちが隠れていることが少なくありません。
事務の吉川さんからは、また別の声が出ました。
「お客様から庭のことを聞かれても、私には分からないんです。毎回、社長に聞いて折り返すのが申し訳なくて」
一方で、最後まであまり話してくれなかった人もいました。
中堅の大塚さんです。
帰りの車でも「まあ、なんとかやってます」と言うだけでした。
平野さんは、無理に聞き出すことはしませんでした。
話してくれない人がいるのも、今の会社の正直な姿だと受け止めたそうです。
こうして集まった声を、平野さんは、自分の手帳の三つの山の横に書き足していきました。
すると、同じ山の中にも、それぞれの立場から見た景色があることが分かってきました。
始める前の迷い 「売上が減る」「取ったら辞めるのでは」
やることの候補は見えてきました。
ベテランと若手が一緒に現場に出る日を決める。
庭ごとの記録を残す。資格を取る費用を会社が持つ。
でも、いざ始めようとすると、また別の迷いが出てきます。
一つ目は、売上の心配でした。
小島さんと北村さんが一緒に現場に出ると、二人で一軒分の仕事しかできません。
普段なら二人で二軒回れるところが、一軒になる。
月に2回そうすれば、ざっと計算して、月に十数万円分の仕事を手放すことになります。
これも、先ほどの帳簿の話とつながっています。
同行日で減った売上は、帳簿の上では「なんとなく売上が少し少ない月」としか見えません。
それが「育てるために使ったお金」だとは、どこにも書かれないのです。
だからこそ、社長自身が「これは投資だ」と意識していないと、少し売上が落ちた月に、すぐやめたくなってしまいます。
二つ目は、資格の費用でした。
全額を会社が持つと決めたとき、平野さんの頭をよぎったのは「資格を取ったら、それを持って辞めてしまうのでは」という不安でした。
人を育てようとする社長なら、きっと一度は感じる不安ではないでしょうか。
平野さんは、ここでずいぶん悩んだそうです。
でも最後は、手帳の数字に背中を押されました。
辞められたことで出ていったお金は、百万円を超えていた。
資格を取ってもらうことで辞められるかもしれない不安より、育てずに辞められるほうが、ずっと高くつく。
それなら、「この会社にいると成長できる」と感じてもらうほうに賭けてみよう。そう考えたのです。
三つ目は、小島さんの気持ちでした。
「写真で記録なんて、わしにはできん」と言われたらどうしよう。
「教える役なんて」と断られたらどうしよう。
平野さんは、小島さんに頼むとき、言葉を選びました。
「北村を育ててほしい」ではなく、「小島さんのやり方を、この会社に残したい」と伝えたのです。
小島さんはしばらく黙っていましたが、やがて「そういうことなら」と引き受けてくれたそうです。
自分の仕事がなくなるのではなく、自分の仕事が会社に残る。その違いは、小島さんにとって大きかったのかもしれません。
そして平野さんは、最後にもう一つ決めました。全部を一度に始めないこと。
そして、期限を決めて試すことです。
一緒に現場に出る日は、まず3か月だけ試してみる。
庭の記録は、全部のお客様ではなく、長くお付き合いのある常連さん10軒から始める。
剪定に関わる資格の費用は、全額を会社が持つ。
「やってみて駄目なら、やめればいい」
そう思えたことで、ようやく一歩目が踏み出せたといいます。
小さく、期限つきで始めることは、社長自身の心を軽くするための工夫でもあったのです。
始めてみたら、うまくいかないことも出てきた
始めてみると、思ったようにいかないことも出てきました。
いちばん早くつまずいたのは、庭の記録でした。
最初の3週間ほどは、北村さんが張り切って写真を撮り、木の種類や切った位置をスマートフォンに打ち込んでいました。
ところが、1か月を過ぎたころから、記録がぱたりと止まってしまったのです。
理由は単純でした。
一日外で体を動かしたあと、夕方に事務所でスマートフォンに文字を打ち込むのは、思った以上に疲れる作業だったのです。
平野さんは、やり方を変えました。現場では写真を撮るだけにする。
文字にするのは、帰りの車の中で北村さんが話した内容を、事務の吉川さんが聞き取って書く。
これが思わぬ効果を生みました。吉川さんが庭のことを少しずつ覚えていったのです。
数か月たつと、お客様から「梅はいつ頃来てもらえますか」と聞かれても、記録を見ながら答えられるようになりました。
最初に吉川さんが話してくれた困りごとが、思いがけない形で解けていったのです。
もう一つのつまずきは、意外なところから出てきました。
あまり話してくれなかった大塚さんが、ある日、ぽつりと言ったのです。
「北村ばっかり、小島さんについて回れていいですね」
平野さんは、はっとしたそうです。
大塚さんも、小島さんから学びたいことがあった。
でも、中堅という立場もあって、言い出せずにいたのかもしれません。
帰りの車で話してくれなかったのは、困っていないからではなかったのです。
平野さんは、同行日を北村さんだけでなく、大塚さんにも順番で回すことにしました。
大塚さんが小島さんから学びたかったのは、古い庭石の据え方だったそうです。
新しい取り組みは、始めた瞬間に完成するものではありません。
始めてみて初めて、出てこなかった声が聞こえてくることがあります。
うまくいかないことが出てきたら、それは失敗ではなく、会社の本当の姿が少し見えてきたしるしなのだと考えられます。
一年たって、見えてきたこと
それから一年がたちました。平野さんは、去年と同じように、雨の日に紙を広げました。
今度は、書けることがありました。
使ったお金は、資格の費用と、同行日に手放した仕事の分を合わせて、去年よりはずっと多くなっていました。
その横に、変わったことを書いていきます。
北村さんが一人で任されるお宅は、3軒から11軒に増えた。
隣町の同業者に頼む外注費は、前の年の半分ほどになった。
平野さんが夜に見積もりを書く日は、週3日から週1日に減った。
記録をつけた常連さんの庭は、10軒から30軒近くに増えた。
お客様から「前の人は」と言われることも、ほとんどなくなった。
けれど、平野さんが本当に「見えた」と感じたのは、数字以外のところでした。
一つ目に見えたのは、人に使うお金の正体です。
平野さんは最初、人への投資とは「お金を払うこと」だと思っていました。
講習代や手当のことです。でも一年たってみると、いちばん効いたのは、お金そのものより「時間の使い方を決めたこと」でした。
教えることを「手が空いたらやること」から「月に2回、必ずやること」に変えた。
その時間を守るために、売上を少し手放した。それが、何よりの投資だったのです。
二つ目に見えたのは、ベテランの変化です。
小島さんは、北村さんや大塚さんに説明するうちに、「なぜこの枝を切るのか」を自分の言葉で話すようになりました。
ある日、小島さんは平野さんにこう言ったそうです。
「四十年やってきて、自分が何を考えて切っとったのか、初めて分かった気がするわ」
教えることは、教わる人だけでなく、教える人も育てるのかもしれません。
自分の仕事がなくなると心配していた小島さんは、今では、記録の写真を見ながら若手に話す時間を楽しみにしているといいます。
三つ目に見えたのは、社長自身のことでした。
三つの山のうち、「見積もりを出せるのが社長一人しかいない」という山だけは、この一年でほとんど動きませんでした。
平野さんは正直に、紙にそう書きました。
人の問題を見ていくと、最後に社長自身に行き着くことがあります。
自分が抱え込んでいるものは何か。手放せずにいるものは何か。
平野さんは、来年の紙1枚に、「大塚さんに見積もりを任せられるようにする」と書き加えました。
四つ目に見えたのは、求人票に「書けること」ができたということです。
平野さんは、求人票を書き換えました。
「入社3年で、一人で庭を任されるまでの道のり」を書き、先輩と一緒に現場へ出る日数や、この3年間で辞めた人の数も載せました。
これは、一年前の平野さんには書けなかったことです。
書くことがなかったからです。
求人票に書けることが増えたのは、文章がうまくなったからではありません。
実際にやってきたことが、書けるだけ積み上がったからなのです。
応募は2人だけでした。
でも二人とも、面接で「ここなら、ちゃんと教えてもらえそうだと思った」と話したそうです。
平野さんにとっては、何十人の応募よりもうれしい2人であり、この一年の答え合わせのように感じられたのではないでしょうか。
平野さんの一年から、持ち帰れること
平野さんの一年を振り返ると、特別なことは何もしていないことに気づきます。
紙1枚に必要な人を書き、手帳に困った場面を書き、帳簿を少しめくり、帰りの車で社員と話した。
やったことは、どれも今日からでもできることばかりです。
それでも、いくつか大事な分かれ道があったように思います。
まず、平野さんは「何にお金を使うか」から考えるのをやめて、「どこが痛むのか」から始めました。
それも、理由ではなく場面を集めることで、ぼんやりした悩みを、手で触れられる大きさに変えていきました。
次に、帳簿の中に散らばっていた「辞められて出ていったお金」を、一つにまとめて見ました。
それによって、迷いが「使うかどうか」から「どこに使うか」に変わりました。
そして、社員の声が出なかったとき、それを「不満がない」とは受け取りませんでした。
聞く場所と聞き方を変えて、一人ずつ、具体的な場面から話を聞きました。
それでも話さなかった人の声は、取り組みを始めてから、思いがけない形で聞こえてきました。
始めるときは、小さく、期限を決めました。
うまくいかないところが出てきたら、やめるのではなく、続けやすい形に直しました。
最後に、一年後に振り返るとき、数字と言葉の両方で見ました。
外注費が減ったことも、小島さんの一言も、どちらも同じくらい大切な「変わったこと」だったのです。
こうして見ると、平野さんの一年は、先ほどの3つの習慣を、迷いながら一つずつ形にしていった道のりだったともいえます。
紙1枚に必要な人を書くこと。年に1度、使ったお金と変わったことを並べること。
そして、その積み重ねを数字で外に見せること。
どれも、一度で完璧にできたわけではありません。
それでも、一年たつと、確かに会社の景色が変わっていました。

まとめ 小さな会社は、人で勝てる
「人は宝」という言葉は、本当にその通りだと思います。
ただ、宝にもいろいろあります。金庫にしまって、ときどき眺めるだけの宝。
そして、手入れをしながら毎日使い、使うほどに輝きを増していく宝。
小さな会社にとっての人は、きっと後者ではないでしょうか。
ここでお話しした考え方は、少し難しい言葉で「人的資本経営」と呼ばれることがあります。
人を、ただかかる費用としてではなく、手をかけるほど価値が増していく会社の元手として考える経営のことです。
大きな言葉に聞こえますが、その中身はとても素朴です。
人に使うお金を、もっと生かせる使い方に変えていく。
それだけのことだと考えられます。
設備の新しさや資金の多さでは、小さな会社が大きな会社に勝つのは簡単ではありません。
でも、人は違います。社長と社員の距離が近く、一人ひとりの成長が会社の手応えとしてすぐに返ってくる。
それは、小さな会社にしかない強みです。
人で勝つしかない会社だからこそ、人で勝てる。
そう考えると、少し前向きな気持ちになれるのではないでしょうか。
そしてもし、人にお金を使っても何が変わったか書けない、と気づいたとしても、落ち込む必要はありません。
平野さんにとって、あの「何も書けなかった紙」こそが、すべての出発点でした。書けないと分かったから、何に困っているのかを探し始めた。
探し始めたから、社員の声を聞こうと思えた。
書けない紙は、失敗の記録ではなく、地図を描き始めるための白い紙なのだと考えられます。
まずは今夜、紙を1枚用意して、「3年後のうちの会社に、どんな人が何人いてほしいか」を書いてみるところから始めてみるのも一つです。
もし手が止まってしまったら、手帳の後ろのページを開いて、今日「困った」と感じた場面を一行だけ書いてみてください。
二週間たったとき、その手帳には、きっと会社の次の一手につながる何かが書かれているはずです。

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