一社依存から抜け出した印刷会社の話—つまずきが教えてくれること
2017年、アメリカのある高名な裁判官が、名門男子校の卒業式で少し変わったスピーチをしたという逸話があります。
前途洋々の若者たちに向けて、「これから先、皆さんにはいくつもの苦しい経験をしてほしい」と語りかけたのです。
理不尽な扱いを受けることで公正さのありがたみを知り、裏切りに遭うことで誠実さの意味を知り、孤独を味わうことで仲間の存在の尊さを知る—そんな逆説的な祝福でした。
一見すると、卒業を祝う場にはふさわしくない言葉のようにも聞こえます。
けれども、この話を経営という文脈に置き換えて考えてみると、はっとさせられる部分が多くあるのではないでしょうか。
今日は、この逸話をきっかけに、経営者にとっての「困難」がどのような意味を持つのか、じっくり考えてみたいと思います。
なぜ順調なときよりも、つまずいたときに学びが深いのか
私は税理士として、これまで多くの中小企業の経営者の方とお付き合いをしてきました。
決算の数字を見ながら、経営がうまくいっている時期のお話を伺うこともあれば、資金繰りに苦しんでいる時期のご相談をお受けすることもあります。
不思議なもので、後になって振り返ってみると、経営者としての考え方が大きく変わった転機は、たいてい順調なときではなく、つまずいたときにあります。
売上が伸びている間は、今のやり方が正しいと信じて突き進むだけで済んでしまいます。
ところが、思うようにいかない出来事に直面すると、人は立ち止まって「なぜこうなったのか」「本当に大切にすべきことは何か」を考えざるを得なくなるのです。
これは決して精神論ではありません。
順調な時期は、いわば追い風を受けて船を走らせているような状態です。
追い風のときは、舵取りが多少雑でも前に進みます。
ところが向かい風が吹いたとき、はじめて自分の操船技術が試されます。
そしてその向かい風の中でこそ、本当に必要な技術や心構えが身についていくのではないでしょうか。
「困った出来事」の裏に隠されている贈り物
冒頭で紹介した卒業式のスピーチには、いくつかの具体的な場面が挙げられていました。
それを経営の場面に置き換えて考えてみましょう。
たとえば、取引先から不公平だと感じるような扱いを受けたとき、私たちは初めて「公正な取引とはどういうものか」を真剣に考えるようになります。
日頃、当たり前のように公正に扱われている間は、公正さのありがたみになかなか気づけないものです。
また、信頼していた相手に裏切られるような経験をしたとき、人は深く傷つきます。
しかしその痛みを通じて、「自分は誠実であろう」という気持ちがかえって強くなることも少なくありません。
裏切られた経験があるからこそ、自分は同じことを他人にしないと心に誓えるのだと考えられます。
孤独を感じる時期を経験した経営者は、その後、仲間や従業員の存在をより大切にするようになります。
うまくいかない時期に誰も助けてくれなかった経験があるからこそ、今度は自分が誰かの支えになろうとする—そうした好循環が生まれることもあるのではないでしょうか。
思うようにいかない不運が続いたときこそ、人はようやく巡ってきたチャンスの価値を実感できます。
何もかもがすんなり手に入る環境では、機会のありがたさに鈍感になってしまいがちです。
そして、競争に敗れる経験は、勝ち負けだけにとらわれない広い視野を育ててくれます。
負けたときにどう振る舞うかにこそ、その人の器が表れるのではないでしょうか。
誰にも意見を聞いてもらえないと感じた経験がある経営者は、その分、他人の話に耳を傾けることの大切さを身にしみて理解しています。
そして、痛みや苦しさを味わったことのある人ほど、他人の痛みに寄り添える、思いやりのある経営者になっていくように思います。
ある印刷会社経営者が味わった苦い経験
ここで、私が関わらせていただいたある経営者の話を、ご紹介させてください。
従業員8名ほどの小さな印刷会社を営む中村さん(仮名)は、開業から10年ほど、ある大手企業からの継続的な受注に支えられて事業を続けてきました。
売上全体の6割ほどをこの一社が占めており、中村さんにとってはいわば大黒柱のような存在でした。
ところがある年、その大手企業が印刷業務を内製化する方針を打ち出し、契約が突然打ち切られることになったのです。
中村さんにとっては、長年の信頼関係を一方的に断ち切られたような、裏切られたに近い感覚だったといいます。
売上の柱を失ったことで、しばらくは資金繰りに苦しむ時期が続きました。
しかし中村さんは、この出来事をきっかけに、これまで向き合ってこなかった課題に本気で取り組み始めました。
特定の一社に依存する経営体制を見直し、地域の小さな飲食店や個人事業主など、これまで手を出していなかった小口の顧客層に目を向けたのです。
一件一件の取引は小さくても、複数の顧客と丁寧に関係を築いておけば、一社に何かあっても事業全体が揺らぐことはありません。
中村さんはその後、数十社に及ぶ小規模な取引先と顔の見える関係を築き、以前より経営の土台はむしろ安定したそうです。
中村さんは後に、「あの契約打ち切りがなければ、今も一社に頼りきったままだったと思う」と振り返っていました。
つらい出来事ではありましたが、結果として経営の考え方そのものを見直す、大きな転機になったのです。
目の前の困難をどう受け止めるか
こうした話を聞くと、「では、困難は積極的に歓迎すべきなのか」と思われるかもしれません。
ただ、無理に困難を求める必要はないでしょう。
大切なのは、困難がすでに目の前にあるとき、それをどう受け止めるかという姿勢ではないかと思います。
まずは、今つらいと感じている出来事について、「これは自分に何を教えようとしているのだろうか」と問いかけてみることから始めてみるのも一つです。
売上の落ち込みであれば、どの顧客層への依存が高すぎたのかを見直す機会かもしれません。
従業員の退職であれば、日頃のコミュニケーションのあり方を見直す機会かもしれません。
取引先とのトラブルであれば、契約や合意の取り方を見直す機会かもしれません。
もう一つ大切なのは、困難のさなかにいる自分自身を責めすぎないことです。
うまくいかない時期は、経営者として何かが足りないから起きるとは限りません。
むしろ、事業を長く続けていれば誰にでも訪れる、避けがたい局面だと捉えたほうが、次の一歩を踏み出しやすくなるように思います。
そして、困難を乗り越えた後には、その経験をぜひ言葉にして残しておいていただきたいと思います。
決算書の数字の裏には、その年に何を乗り越えたかという物語があります。
数字だけを見返すのではなく、「あの年、何があって、何を学んだか」を振り返る時間を持つことは、次に困難が訪れたときの心の支えになるはずです。

おわりに—逆境を味方につける経営へ
冒頭で紹介したスピーチは、一見すると若者たちへの厳しい言葉のようでいて、実はとても温かい励ましだったのではないかと思います。
困難そのものを望んでいるのではなく、困難の中にこそ、人を成長させる力が眠っていることを伝えようとしていたのでしょう。
経営者の皆さまも、これまでの歩みの中で、思い出したくないような苦しい出来事をいくつも経験されてきたことと思います。
しかし、その一つひとつが、今の経営者としての皆さまをかたちづくってきたのではないでしょうか。
これから先も、順風満帆な時期ばかりが続くとは限りません。
ですが、困難な出来事に直面したときこそ、それを事業を見直す機会として受け止めてみる。
そうした姿勢を持っておくだけで、同じ出来事もまったく違う意味を持つようになるように思います。
つらい出来事の渦中にあるときほど、視野が狭くなりがちです。
そんなときは、ぜひ一度立ち止まり、信頼できる誰かに話を聞いてもらうことをおすすめします。
私のような税理士も、数字の相談だけでなく、経営者の皆さまが困難と向き合う際の、小さな支えになれればと願っております。
