理念は「立派になってから」でなくていい―今日、紙一枚に書いてみる
「理念を書かなきゃ」と思いながら、今日も一日が終わる
「うちの会社は、何のためにあるのか」。
この問いを、一度も考えたことがない社長は、おそらくいないと思います。
経営の本を開けば「理念が大切」と書いてありますし、研修やセミナーでも必ずと言っていいほど話題にのぼります。
それでも、実際に紙に書いたことがあるかと聞かれると、首をかしげる方が少なくありません。
朝は現場の段取り、昼はお客様の対応、夕方は見積もり、夜は請求書と資金繰り。
社長の机の上には、いつも「今日中にやること」が「いつかやるべきこと」よりも高く積まれています。
理念は、そのいちばん下で静かに順番を待っている。そんな会社が多いのではないでしょうか。
この記事では、「理念をまだ書いていない」ことに少し後ろめたさを感じている社長に向けて、二つのことをお伝えしたいと思います。
ひとつは、書いていなくても、決して出遅れているわけではないということ。
もうひとつは、それでも、書くなら早いほうがいいということです。
そして最後に、今日このあと、紙一枚で始められる方法をご紹介します。
長く続く会社も、最初から理念を掲げていたわけではない
何十年も第一線で活躍し続けている企業を調べた研究があります。
そこから見えてくるのは、少し意外な姿です。
たしかに、創業の瞬間から「何のためにこの会社をつくるのか」をはっきり持っていた会社もあります。
たとえば、ある医療品メーカーの創業者は、人の痛みや病気を少しでもやわらげたいという思いを、最初から胸に抱いていました。
日本でも、戦後まもない時期に、小さな町工場から出発した電機メーカーの創業者が、会社をつくる目的を文書にまとめています。
けれども、こうした例はごく一部です。
多くの会社は、立ち上げからしばらくのあいだ、とにかく仕事を取ってきて、会社をつぶさないことに必死でした。
理念を言葉にしたのは、経営がある程度落ち着いてから。
創業から十年ほどたったころが多かったといいます。
ここに、中小企業の社長にとって大切なヒントが二つあるように思います。
ひとつ目は、理念を書いたから会社が伸びたのではなく、必死に走ってきたからこそ、書けるようになったということです。
何年も現場に立ち、お客様に喜ばれ、ときには失敗もしてきた。
その積み重ねがあって、はじめて「うちはこれを大事にしている」と言えるようになるのです。
理念は、空想から生まれるものではなく、走ってきた道のりから生まれるものとも言えるでしょう。
二つ目は、それでも会社が大きくなる前に言葉にしていたということです。
人が増えてからでは、社長の思いを一人ひとりに直接伝えるのが難しくなります。
従業員10名前後というのは、まさにその「大きくなる前」の時期にあたります。
つまり、まだ書いていなくても問題はありません。
ただ、書くなら早いほうがいい。
そして、この記事を読む時間があるのなら、それは「今」かもしれません。
書こうとすると、なぜ手が止まるのか
「大事なのは分かっている」。それでも書けないのには、それなりの理由があります。
長く経営者の方々と話してきて、よく耳にするのは次のような声です。
「立派な言葉でなければいけない」という思い込み
理念と聞くと、大企業のホームページに載っているような、格調高い文章を思い浮かべます。
「社会に貢献する」「笑顔を届ける」。
いざ自分で書いてみると、どこかで見たような言葉ばかりが並んでしまい、「これじゃない」とペンを置く。
そんな経験がある方も多いのではないでしょうか。
「書いたら、守らなければいけない」という重たさ
紙に書いた瞬間、それは社員への約束になります。
今の会社の姿と理念のあいだにずれがあれば、「社長、書いてあることと違いますよね」と思われるかもしれない。
その気恥ずかしさや怖さが、書く手を重くします。
「今はそれどころじゃない」という現実
そして何より、日々の忙しさです。
従業員10名前後の会社では、社長が営業も現場も採用も資金繰りも、ほとんど一人で抱えています。
月末の支払いを前にして、「うちの存在意義」を考える余裕はなかなか生まれません。
こうして理念は「いつか、落ち着いたら」の箱にしまわれます。
ところが中小企業には、本当に落ち着く日はなかなかやって来ません。
一方で、理念がないことの困りごとは、意外なところで顔を出します。
大きな仕事の話が来たとき。社員同士の意見が割れたとき。
値段を下げるか迷ったとき。判断の「ものさし」がないため、そのたびに社長が一人で悩み、答えが揺れてしまうのです。
次にご紹介するのは、まさにそんな場面で、理念を書くことになった社長の架空のお話です。
事例:ファミレスの一時間で生まれた、ハウスクリーニング会社の理念
(以下は架空のお話です。)
秋山さん(仮名、40代前半)は、地方都市でハウスクリーニングの会社を営んでいます。
大手の清掃会社で働いたあと、一人で独立して九年。今ではパートを含めて十名のスタッフがいます。
創業して数年は、依頼があれば何でも引き受けました。
エアコン掃除、引っ越し後の清掃、店舗の床磨き。
「理念なんて考える暇はなかった」と秋山さんは振り返ります。
大きな話が、社内を二つに分けた
あるとき、地元の不動産会社から大きな話が来ました。
管理する賃貸アパートの空き部屋の清掃を、まとめて任せたいというのです。
仕事量は安定していますが、一件あたりの単価は低めでした。
若手の西田さん(仮名、20代後半)は、「毎月の仕事が読めるのはありがたい」と前向きです。
一方、開業当初から支えてくれたパートの松田さん(仮名、50代)は、表情を曇らせました。
「それを入れたら、おばあちゃんたちのお風呂掃除の予約が、取れなくなりませんか」。
どちらの言い分ももっともです。
秋山さんは一週間迷い続けました。
そして気づきます。
迷っているのは、答えが分からないからではない。
「何を基準に決めればいいのか」が、自分の中で言葉になっていないからだ、と。
子どもの塾を待つ、一時間
その夜、秋山さんは子どもの塾が終わるのを、近くのファミレスで待っていました。
手元にあったのは、作業報告書の予備とボールペンだけ。
その裏に、三つのことを書き出してみたそうです。
一つ目:独立したとき、思い浮かべていた人の顔
ペンを持って、秋山さんが最初に思い出したのは、九年前の冬の実家の浴室でした。
母親は一人暮らしです。
その年の秋に腰を痛めていました。
久しぶりに帰省して浴室の戸を開けると、天井やタイルの目地が黒いカビで覆われていました。
後ろから母親が、「ごめんね、汚くて。もう自分じゃ無理なのよ」と笑いながら言いました。
そのとき秋山さんの胸に湧いたのは、驚きよりも、恥ずかしさに近い気持ちでした。
母親に対してではありません。
自分自身に対してです。
当時の秋山さんは、大手の清掃会社で毎日何軒も、よその家の浴室を磨いていました。
それなのに、いちばん近くにいるはずの母親が困っていることに、気づいていなかった。
「人の家はきれいにしているのに」という思いが、しばらく頭から離れませんでした。
もう一つ、忘れられなかったのが、母親の笑い方です。
昔からきれい好きで、来客があると必ず玄関を拭き清めていた人でした。
その母親が、子どもに謝りながら笑っている。
その笑いの奥にあったのは、汚れそのものよりも、「自分のことが自分でできなくなった」というやるせなさだったのではないか。
秋山さんには、そう感じられたといいます。
その日、秋山さんは三時間かけて浴室を磨きました。
終わったあと、母親は「ありがとう」より先に、「これで、お風呂に入るのが嫌じゃなくなるわ」と言いました。
その一言を聞いて、秋山さんは初めて気づいたそうです。
掃除は汚れを落とす仕事だと思っていた。
でも本当は、人の心にたまった重たさを軽くする仕事でもあるのだ、と。
独立を決めたのは、それから半年後のことです。
大きな志があったわけではありません。
「母みたいな人の役に立てたら」。
小さいけれど、たしかな気持ちでした。
ファミレスの席でそこまで書いて、秋山さんのペンは止まりました。
あのときの気持ちを、自分はこの九年間、どこに置いてきてしまったのだろう。
忘れていたわけではない。
けれど、日々の予定表を埋めるうちに、いつの間にか引き出しの奥にしまい込んでいたのだと気づいたそうです。
二つ目:いちばん嬉しかった仕事
次の問いで、秋山さんが最初に思い浮かべたのは、創業三年目に決まった大きな店舗清掃の契約でした。
これで毎月の支払いに追われずにすむ。
そう思った日のことは、よく覚えています。
けれど書きかけて、手が止まりました。
あのときの気持ちは、「嬉しい」ではなく「ほっとした」だったのではないか。
安心と喜びは、似ているようで少し違う。
そう考え直して、もう一度記憶をたどったそうです。
そこで浮かんできたのが、ある年の暮れに伺った、八十代の女性のお家です。
その女性は、予約の前に何度か問い合わせの電話をかけてきては、「やっぱり、もう少し考えます」と切っていました。
ようやく伺った日も、玄関で「こんなに汚いところをお見せして、ごめんなさいね」と何度も頭を下げました。
秋山さんは、特別なことは何も言いませんでした。
ただ、いつもどおりに手を動かしただけです。
作業が終わると、女性は一部屋ずつゆっくり歩いて回りました。
台所の流し台にそっと手を置き、しばらく黙っていました。
そして、こう言ったのです。「これで、お正月に娘たちを家に呼べるわ」。
話を聞くと、その女性はここ数年、「うちは狭いから」と言って、自分が娘さんの家へ出かけていたそうです。
本当の理由は、家の中を見られたくなかったからでした。
帰りの車に乗っても、秋山さんはしばらくエンジンをかけられませんでした。
胸の奥がじんわりと熱くなっていたからです。
自分がしたのは、ただの掃除です。
それなのに、この人のお正月が変わる。
もしかしたら、家族との距離まで変わるかもしれない。
そう思うと、誇らしさとも少し違う、もっと静かであたたかい気持ちが広がったといいます。
そして、その気持ちは、実家の浴室で母親の言葉を聞いたときと、よく似ていました。
恥ずかしさは、ときに人を家の中に閉じ込めてしまう。
秋山さんはファミレスの席で、そのことをあらためて紙に書き留めました。
三つ目:これだけはやりたくないこと
いちばんペンが重かったのは、この問いでした。
思い出したくない記憶だったからです。
大手で働いていたころ、一軒あたりの作業時間は厳しく決められていました。
ある日、作業を終えて片づけていると、一人暮らしの年配の男性が遠慮がちに声をかけてきました。
「ついでに、この電球を替えてもらえないかね。脚立に乗るのが怖くてね」。
秋山さんは「申し訳ありません、作業の範囲外なものですから」と断り、次の現場へ向かいました。
次の予約まで、時間に余裕がなかったのです。
会社の決まりは守った。誰に叱られるわけでもない。
それでも、車の中で思い出すのは、玄関で天井を見上げていた男性の横顔ばかりでした。
本当は三十秒もあればできたことです。
その三十秒を惜しんだ自分が、いちばんなりたくない人間になった気がした。
悲しさとも怒りともつかない、苦い悔しさだったといいます。
そこまで書いて、秋山さんはもう一つ、気づきたくなかったことに気づいてしまいます。
このところの繁忙期、自分もスタッフに「次があるから、急いで」と何度も言っていたのです。
あのとき嫌だった自分に、いまは会社ごと戻りかけているのではないか。
不動産会社の話を全部受ければ、それはもっと強まるかもしれない。
松田さんが曇らせた表情の訳が、ようやく分かった気がしたそうです。
三つに流れていた、同じ感情
書き終えた三つを読み返すと、どれにも同じ感情が流れていることに秋山さんは気づきました。
「恥ずかしさ」です。
汚れた浴室を謝った母親の恥ずかしさ。
人を家に呼べなくなっていた女性の恥ずかしさ。
そして、電球一つ替えられなかった自分自身の恥ずかしさ。
「もう自分ではできない」と口にするのは、勇気のいることです。
その一言を責めずに受け取り、また胸を張って人を招ける家に戻す。
自分たちの仕事は、そこにあるのではないか。
そう思ったとき、一つの文が自然と浮かんだといいます。
「もう自分ではできない」を、「また人を呼べる家」に変える。
立派な文章ではありません。
でも秋山さんには、声に出しても照れずに言える言葉でした。
理念が「ものさし」になった
この一文を手にすると、不動産会社への答えも見えてきました。
断るのでも、全部引き受けるのでもありません。
・高齢のお客様の定期清掃の枠を、先に予定表に確保する
・空き部屋の清掃は、平日の午前だけ・一日二件までと決めて引き受ける
・作業報告書の最後に「気になったところ」の欄を足し、高い所の電球など、一人では大変そうなことを書き留める
三つ目の「気になったところ」の欄には、あの日替えられなかった電球への思いが込められていました。
その場で全部に応えられなくても、「気づいていますよ」と伝えることならできる。
そう考えたのです。
次の朝、秋山さんはその紙をスタッフに見せました。
松田さんは少しほっとした顔をしました。
意外だったのは西田さんの一言です。
「じゃあ空き部屋でも、次に住む人が友だちを呼びたくなる部屋にすればいいんですね」。
理念が、若いスタッフの中で自分の仕事の言葉に置き換わった瞬間でした。
半年後、定期清掃のお客様は18軒から27軒に増えました。
その多くは、「気になったところ」の一言を喜んだお客様からの、ご紹介だったそうです。
書く前から、理念はもう会社の中にある
秋山さんの理念は、ファミレスでゼロから生まれたものではありません。
九年間の仕事の中に、すでにあったものを、ただ言葉にしただけとも言えます。
税理士として多くの会社の通帳や帳簿を拝見していると、よく気づくことがあります。
それは、資金が苦しい月に、社長が最後まで削らなかった支出が、どの会社にもあるということです。
たとえば、売上が落ちた月も、職人の道具代だけは削らない会社。
遠くに住む古いお客様への配達を、ガソリン代がかさんでも続けている会社。
経費を絞っているのに、新人が先輩と二人で現場に出る日の人件費だけは手をつけない会社。
決算書の上では、どれも「消耗品費」「旅費交通費」「給料」といった、ありふれた科目(お金の使い道を分類するための名前)の一行にすぎません。
けれど、年ごとに並べてみると、苦しい年にも減っていない一行があります。
そこには、社長が口には出さない「ここだけは譲れない」が、静かに刻まれているのです。
秋山さんの会社にも、そんな一行がありました。
高齢のお客様の家で使う軽い脚立や、においの強くない洗剤。
少し割高でも、売上が少ない月にも買い揃えていたのです。
理念を書くずっと前から、秋山さんは「もう自分ではできない人」のためにお金を使っていたことになります。
こう考えると、理念を書くことは「新しいものをつくり出すこと」ではないのかもしれません。
すでにあるものを「見つけて、名前をつけること」。
そう捉えると、少し気が楽になりませんか。
そして、もう一つ大事なことがあります。
社長の「譲れない一行」は、社員からは見えにくいということです。
帳簿を見るのは社長と税理士くらい。
だからこそ、言葉にして伝える意味があるのです。
秋山さんの会社で西田さんが自分なりの解釈を口にできたのも、紙一枚の言葉があったからでした。
今日、紙一枚に書いてみるための三つの問い
では、実際にどう書けばいいのか。
用意するのは、紙一枚とペン、そして30分ほどの時間です。
事務所でなく、喫茶店や車の中など、電話が鳴らない場所を選ぶのも一つです。
問い1:始めたとき、誰の顔が浮かんでいたか
会社を始めたとき、あるいは家業を継いだとき。
「この人の役に立ちたい」と思った相手は誰だったでしょうか。
「お客様」という大きな言葉ではなく、一人の具体的な顔を思い出してみてください。
継いだ方なら、先代が大切にしていた常連さんの顔でもいいと思います。
問い2:苦しいときも、手放さなかったものは何か
先ほどの「削らなかった支出」を思い出してみましょう。
お金だけでなく、時間も同じです。
忙しくてもやめなかったこと、裏切らなかった約束は何でしたか。
そこに、あなたの会社の芯があります。
問い3:これだけはやりたくないことは何か
意外に書きやすいのが、この問いです。
対応の悪い店で嫌な思いをしたこと。
以前の職場で、納得できなかった働き方。
「ああはなりたくない」という思いの裏側には、たいてい「こうありたい」が隠れています。
三つを一文にまとめるときのコツ
三つの答えが並んだら、それを眺めながら一文にしてみます。
そのとき、次の三つを意識すると書きやすくなります。
・立派でなくていい:社員の前で照れずに口にできる言葉かどうかを、一番の基準にします
・お客様の変化で語る:「うちはこういう会社」より、「お客様がこうなる」のほうが、現場で使いやすくなります
・鉛筆で書くつもりで:最初の一文は仮置きです。決算のたびに見直して、書き直しても構いません
書けたら、まずは信頼できる社員を一人だけ選んで、見せてみるのもいいかもしれません。
「こんなことを考えているんだけど、どう思う?」と。
相手の反応が、言葉を磨いてくれます。
大事なのは、一度で完成させようとしないことです。
理念は額に入れる「完成品」ではなく、会社と一緒に育っていくものだと考えてみてはいかがでしょうか。

まとめ:遅すぎることはない。でも、早いほど迷いは減る
ここまでの内容を振り返ってみます。
・長く続く会社の多くも、理念を言葉にしたのは、経営が落ち着いてからでした。まだ書いていなくても、出遅れではありません
・それでも、会社が大きくなる前に書いておくと、社長の思いが社員一人ひとりに届きやすくなります
・理念は、ゼロからつくるものではありません。苦しいときにも守ってきたものの中に、すでにあります
・三つの問いに答えて一文にし、まずは仮置きで構いません。一人の社員に見せることから始めてみるのも一つです
秋山さんが理念を書いたのは、特別な研修の場ではなく、子どもの塾を待つファミレスの一時間でした。
きっかけは、社内で意見が割れた一つの判断です。
理念は、そうした日常の迷いの中でこそ、書く意味が生まれるのだと思います。
日々の仕事に追われている社長ほど、実はもう、理念の材料をたくさん持っています。
毎日お客様と向き合い、苦しい月にもやりくりをして、守るべきものを守ってきたからです。
足りないのは、それを言葉にする三十分だけかもしれません。
この記事を読み終えたら、ほんの少しだけ、手元の紙に向かってみてはいかがでしょうか。
最初の一行はぎこちなくて構いません。
その一行が、次に迷ったときの社長の支えになり、社員と同じ方向を向くための目印になっていくはずです。
迷いながらここまで会社を続けてきたこと自体が、すでに立派な理念の始まりなのですから。

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